■東京編
オーストラリアから帰り、都内の映像制作会社に勤めた。
最初はアシスタントプロデューサー兼アシスタントディレクターとして働きまくった。
ビジネスショーの映像から、NTTなどの販促用の映像、HITACHIのパソコン販促用映像などを制作した。
ビジネスショーでは、キャストは芸能人を使ったり、脇役もオスカーなどからオーディションで決めていった。
映像を撮り終わると、会社に持ち帰り、キャラだしというシーンごとにタイムコードのIN・OUTを書き出す。
その後、仮編集だが、忙しいときは、そのまま、仮編集を行う。
その後は、ポスプロダクションにて本編集を行い、MAにて音入れを行った。
現在のように、パソコン一台で編集しながら同時に音入れをしていくという作業ができない時代だった。
映像制作会社のあとは、念願のグラフィックデザインができるゲーム会社に就職した。
当時はテレビゲームが全盛期だった。
プレステーション2やセガサターンが発売され、3DCGでオープニング映像を作り、ポリゴンで立体のキャラクターを
動かす仕様に変わっていった時代だった。
当時は200万円以上するシリコングラフィックというPCを使い、数百万というソフトを使い、デザインしていた。
毎日が、ものづくりの日々で、徹夜の日々も続いたが、楽しい日々だった。
しかし、何年も続いてくると私の中に疑問が生まれ始めた。
「俺がやっていることは、世の中のためになっているのか?」
「子供たちのためになっているのか?」
この疑問はどんどん膨れていった。
私は、子供のとき、自然と接しワンパクに育ってきた。
そのお陰で、たくさんのこと学んだし、危ないことなどの判断も覚えた。
ゲームの世界は、どうやってもリアルにはかなうことは出来ない。
また、ゲームは勝ち負けの世界だから、心の豊かさに欠けてしまう。
「俺は子供たちの未来に悪影響を及ぼしているのではないか? 」
「俺がやりたいことは、真心を届けることなのではないか?」
葛藤がつづいた…。
そんなときに、ある人に出会った。
その方は、映画監督や音楽プロデューサーをしている映像・音楽・芸能プロダクションの社長だった。
そして、八ヶ岳にスタジオがあるから来ないか?と言われ一度見学にいく。
そのスタジオでは横内丙午という音楽家と一緒に素晴らしい音楽を作っていた。
今までに聞いたことのない心が落ち着き、また元気が沸いてくる音楽だった。
「この音楽のように、私も人を励ますものを作りたい」
そう思った瞬間だった。
俺には映像制作やデザインやプロモーションのスキルがある。
それを使って人を励ましたいと思った。
そして、ゲーム会社を辞め、標高1000mの八ヶ岳に住み始めることになった。
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